諏訪大社4社巡りについて過去記事を参照して頂ければ分かりますが、急いで回れば半日程度で実行可能です。
1泊旅行に場合、時間が余ってしまうかもしれませんね。
そんな時にちょっとしたハイキングは如何でしょうか?
せっかく訪ねた諏訪大社の本当の歴史を目の当たりにしつつ、最も古い歴史を持つ上社前宮までの自然豊かな小道をご紹介致します。
おすすめですよ。
上社前宮の遊歩道は時間が無い方におすすめです!
諏訪市がハイキングマップを作製していましたので、今回のルートを抜粋したのが上図です。
なお、諏訪市作成のマップでは、上社本宮も含め、結構長いコースが描かれていますので、更に足を延ばしたい方は以下にアクセスして入手して下さい(結構重いです)。
青く囲んだ個所がおすすめのルートです。
諏訪大社4社巡りを含めたルート考察
諏訪大社4社巡りは、下社から回る方をおすすめします。
下社2社を参拝後、上社前宮駐車場へ向かいましょう。
- 上社前宮駐車場(図の左下)
- 駐車後、県道を通って「神長官守矢史料館」へ
- 史料館敷地から藤森照信氏作品群へ
- 藤森照信氏作品群から鎌倉みち遊歩道を散策しつつ前宮本殿裏へ
上社前宮駐車場(図の左下)
諏訪大社上社前宮の駐車場は県道沿いを利用します。
無理をして、もっと上まで行けますが、ここは素直に通常の駐車場を利用して下さい。
車を駐車後は、前宮に向かい横断歩道を渡りますが、前宮へは入らずにそのまま右(本宮方面)へ向かい、10分ほど歩けば「神長官守矢史料館」に到着します。
神長官守矢史料館は諏訪大社の起源が学べる
「神長官守矢史料館」は通常月曜日が休館日となります。
但し、連休や諏訪大社の祭事がある場合は不定休となるので、必ず確認してからお出かけ下さい。
なお、入館料は100円です。
「神長官守矢史料館」の詳細についてはこちらで詳しく解説しています。
【簡単な史料館訪問のワンポイント】
諏訪大社(特に上社)は、他の神社と大きく違う点は「記紀(古事記、日本書紀)」の神様を建前上祀っているが、源流は土着の神(ミシャグジ)にあるということ。
その信仰を諏訪大社創建よりも前から行っていたのが、この地を治めた守矢氏の祖神とされる「洩矢神」。
その土着信仰を引き継ぐ大祭が「御頭祭(酉の祭)」で、その祭事の内容がこの史料館で再現されています。
諏訪・茅野地方は、豊かな時代を想像させる「縄文土器」が多く出土されており、日本の原点である狩猟に係る信仰をこの史料館で確認し、前宮へ詣でるときっと面白いでしょう。
史料館からは山の方へ向かう
史料館敷地内を右手へ進むと、左側に歴代大祝(おおほおり)の墓所があります。
そのまま坂道を進めば、空を飛んでいるような不思議な建造物が目に入るでしょう。
そこが「藤森照信氏作品群」の場所です。見どころは3点。
- 空飛ぶ泥船
- 高過庵
- 低過庵
ちなみに「藤森照信氏」とは
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
藤森 照信(ふじもり てるのぶ、1946年11月21日 – )は、日本の建築史家、建築家(工学博士)。東京大学名誉教授、東北芸術工科大学客員教授。東京都江戸東京博物館館長。専門は、日本近現代建築史、自然建築デザイン。日本建築学会の建築歴史・意匠委員会委員を歴任。
長野県茅野市出身。
東北大学卒(オフコースの小田和正と同期)~東京大学大学院卒
空飛ぶ泥船
この作品は2010年のものだそうです。
本来の使途は「茶室」のようですが、設計者の藤森照信氏が建築物を空に浮かべたいという念願から、この地で宙に浮かぶようになったとか。
残念ながら中へは入れないようです。
なお、素材は屋根が銅板、その他は泥塗り(漆喰?)です。
普通に「泥塗り」では、雨の日に溶けて無くなっちゃうでしょう。
街と融合させるとこんな感じ。
高過庵
2本のクリの木に、地上から6mほどの高さに、小さな庵室を乗せているという。
米Time誌が、「世界でもっとも危険な建物トップ10」に選ばれたという、日本を代表する危険な建物だって。
ちなみに、その時の1位はイタリアにある「ピサの斜塔」だったそうです。
藤森照信氏は熊本の名家である細川元首相の茶室も設計したそうで、自分も茶室が欲しくなり、実家の畑に建てたものがこの高過庵とのこと。
年一度の公開日には中に入れるらしいが、本当に大丈夫なのでしょうか?
信州の山並みによく合います。
街並みにも合うんですね。
この日は天気が良く、空も青かったのでコントラストがとても綺麗です。
全体像はこんな感じ。
定期的な安全確認は必須ですね。
低過庵
高過ぎな場所にある茶室を作ったので、低過ぎな茶室も作っちゃったそうです。
この屋根はスライド式で開閉するらしいですよ。
こんな感じで、ハイキングがてら一見の価値ありです!
その他
全体的に牧歌的なイメージがある作品の下に、石造りではないとても素朴な祠が鎮座していました。
周りはやはり御柱で囲まれていますが、この地が栄えた縄文時代を彷彿とさせる作りです。
失礼して覗かせて頂きました。
中にはお札があって、「三峯神社」と書かれているようです。
三峯神社、表向きの主祭神は創造神の「イザナギ神」「イザナミ神」です。
狼を守護神とし、山伏信仰のある地なので、諏訪の地との繋がりが何かあるのかな?
鎌倉みち遊歩道で前宮へ向かう
再び「神長官守矢史料館」方面へ坂を少し下ります。
道沿いに小さな祠を発見しました。土着信仰の流れでしょうか?高過庵との融合が面白い。
この直ぐ下から右側へ行けば「鎌倉みち遊歩道」となります。
遊歩道は一部山間部へ入りますので、少し寂しい場所を通ります。
万一のことを考え、女性一人で行くのは避けた方が良いかもしれません。
ここからおよそ1kmの道のりとなりますが、歩きにくいので前宮までおよそ20~30分程度かかります。
道中には小さな御柱に囲まれた祠。
信仰の厚さが伺えます。
「前宮公園」手前は道を間違い易いので注意!
鎌倉みち遊歩道の最初は、砂利道で少し歩きにくいかもしれません。
そのまま進んで行くと、公園?というより、単なるグラウンドに突き当たります。
最初、「行き止まり?」と勘違いして、手前の道を少し下ってしまいました。
遊歩道のルートは、このグラウンド(公園)を突き抜ける感じなのでそのまま進みましょう。
グラウンド(公園)を過ぎるとちょっとした山道
グラウンド(公園)から続く遊歩道は、少し登山道っぽくなります。
なお、冬季は使用不可のようですが、グラウンド(公園)にはトイレがあったと記憶。
実はこの山道には、諏訪大社に係る場所があります。
峰たたえのイヌザクラ
樹齢推定200年のイヌザクラの木があります。
「諏訪上社物忌令之事」に記載される七木の一つ、「峯タタイノ木」にあたることから名付けられたたとのこと。
「たたえ」=「湛」。湛の木とは神が降臨する際の依代(よりしろ)となる木といことで、ミシャグジ神がここに降りられたのであろう。
古くからの神事が行われていたそうで、根本には二つの祠が鎮座してた。
この道を辿って大祝(おおほおり)が前宮に通ったと言われている。
そして「たたえ」の神事が行われたという場所。
前宮に到着
眺望が開けると、遠くに前宮の本殿が望めます。
前宮の本殿自体が結構山の上にありますが、ここからは更に上から見下ろす感じですね。
ぐるりと回って、本殿横の道(水眼の清流が流れる場所)へ行けます。
真後ろも通ります。
夏は本当に綺麗だろうな。
水眼でお清めを行い前宮を楽しもう
前宮本殿へ到着したら、水眼の清流できちんとお清めを済ませて下さい。
そして参拝を行ったら、逆コースとなりますが前宮の見どころを訪ねて下さい。
上社前宮の見どころは実にディープだ
諏訪大社上社前宮の一般的な内容は下の記事をご覧下さい。
今回は、この時に見落とした場所を訪ねてみました。
一般的な観光目的なら必要無いかもしれません。
八坂刀売神のお墓がると言われる場所
前宮本殿の裏手、大木の下に八坂刀売神のお墓があるということです。
しかっりと確認出来ませんでしたが、この写真か反対側の何れかだと思います。
「精進屋」があった場所
現在の前宮本殿です。
上社大祝が即位する前にここで修行と精進潔斎を行ったいいます。
昭和7年(1932年)に取り壊され、代わりに現在の本殿が建てられたことで、本来は無いはずの諏訪大社の本殿が、何故か前宮だけ存在することになったようです。
これも政治的な思惑の他、何者でもありませんね。
昭和7年まで実在した「精進屋」です。
(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia))
諏訪照雲頼重公の供養塔
大祝(おおほおり)の屋敷跡が近い地では、多くの石像物の残欠が出土したといいます。そして、付近の住民が私有地の一角に保存。
この供養塔もそこから見つかった貴重な歴史的遺物のようです。
照雲とは上社大祝を務めた「三河入道頼重」のことで、中先代の乱を戦い鎌倉を占拠した信濃勢の総大将。しかし、足利勢に敗退、自害したという。
近隣住民の信仰の厚さが、ここでも伺えて来ます。
鶏冠社(けいかんしゃ)
前回の訪問で見落としてしまい、非常に残念だった場所。
大祝(おおほおり)が即位式を行う、前宮で最も重要な聖地であったと言われていますが、現在ではその面影はまったく感じません。
まだ年端もいかない(7~8歳)の童子に、化粧を施し、要石の上に着座させ、神長官は秘伝の呪印を結びミシャグジ神を降ろし、そして童子に憑依させたと場所であったという。
鶏冠社(けいかんしゃ)が重要な場所として意味があったのは、大祝(おおほおり)の制度によってだ。すなわち、洩矢神が敗北した後である。
その前は一体とのような祭礼を行っていのか、興味が尽きない。
諏訪の地を元々治めていた「守矢氏」については、こちらの記事を読めば分かります。
「御頭祭」のことを載せたかったが、少し長くなったので別記事で報告します。